1960年代にアメリカで始まったとされるカウンターカルチャー。
サブカルチャーであり、ヒッピーカルチャーとも重なっているようですが、実際にはどういうものだったのでしょうか?

カウンターカルチャーの活動家が用いた平和のシンボルです!
この記事では、
- 意味は?
- カウンターカルチャーで起きたたくさんのムーブメント
- どんな文化が生まれた?
- 視覚的に現れたファッション!
- 音楽と映画(アメリカン・ニュー・シネマ)
- 有名人たち
をご紹介します。
カウンターカルチャーの意味は?
カウンター(counter)の意味は、反対、反撃、反抗。
カルチャー(culture)は、文化。
カウンターカルチャー(Counterculture):
前からある主流の文化に対抗する(体制に反抗する)文化のこと
カウンターカルチャーの始まりは、1963年11月のジョン・F・ケネディの暗殺からと言われています。
一方、終わりは、1973年の米軍のベトナム撤退を経て、ウォーターゲート事件の責任を取る形で1974年にリチャード・ニクソン大統領が辞任を表明。
カウンターカルチャーは大衆文化に吸収されました。
カウンターカルチャーは、大きく見れば、アメリカがベトナムに関係していた時期とほぼ重なっています。

アメリカでのカウンターカルチャー
アメリカでのカウンターカルチャーについて、
- ムーブメント
- カルチャーの例
の2つに分けて見てみます。
ムーブメントの種類
体制に反抗する文化ですから、様々なムーブメント(運動)が起こりました。
公民権運動
米国憲法で保証されている平等な権利がすべての市民に適用されるよう、非暴力での市民権運動が行われました。
(多くの州でアフリカ系アメリカ人の権利を違法に否定していました。)
チカーノ運動
チカーノ公民権運動とも呼ばれ、メキシコ系アメリカ人に権限を与えるよう訴えるものでした。
アメリカンインディアン運動
1968年にミネソタ州ミネアポリスで設立したアメリカ先住民の草の根運動です。
アメリカ先住民に対する警察の残虐行為に取り組むため始まりました。
後に文化継承、高い失業率、教育など多くの先住民部族の問題を取り扱うようになりました。

Warren K. Leffler, Public domain, via Wikimedia Commons
アジアアメリカン運動
1960年代後半から1970年半ばにピークを迎えた、アジア系アメリカ人による運動です。
反戦、反帝国主義を推進し、ベトナム戦争に反対しました。
ニューヨリカン運動
ニューヨーク市、またはその近郊に住むプエルトリコ人とプエルトリコ出身の詩人、作家、音楽家、芸術家による運動です。
1960年代後半から1970年代初頭にかけ、差別を受けた貧しい労働者階級のために始まりました。

さすがアメリカ、移民の国ですね
〜系アメリカ人の運動が並びました
フリースピーチ運動
大学のキャンパスで、学生グループがフリースピーチを行いました。
1964年、カリフォルニア大学バークレー校でのフリースピーチ運動は、南部の公民権運動にルーツがあります。
学生ではない若者も参加しました。
新左翼運動
1960年代から1970年代にかけて起こりました。
より平等な社会を目指し、大学のキャンパスで集団抗議や急進的な左翼活動を行いました。
反戦運動
ベトナム戦争に反対する運動は、1964年に大学のキャンパスで始まりました。
ニューヨークでの国連へのデモ行進と、ペンタゴンでの大規模な抗議行動が行われた翌年の1968年には、国民の大多数が戦争に反対していました。


By S.Sgt. Albert R. Simpson. Department of Defense. Department of the Army. Office of the Deputy Chief of Staff for Operations. U.S. Army Audiovisual Center., Public domain, via Wikimedia Commons
反核運動
1945年に広島に原爆が投下される以前から、科学者と外交官は核兵器政策について議論していました。
一般市民も核兵器実験に関心を持つようになり、1961年、アメリカ60都市で5万人の女性たちが核兵器に反対するデモ行進を行いました。
1960年代初頭には、原子力発電に対する地元の反対派も現れ、1960年代後半に科学界の一部が懸念を表明しています。



若者中心の運動なので、舞台が大学のキャンパスというのが多いですね
学生達の熱い情熱が伝わってくる感じです
他にも、以下のような運動がありました。
フェミニズム運動
1963年に出版されたフェミニストの書籍をきっかけに広がりました。
1960年代後半の抗議運動では、男性が支配していた新左翼運動で女性に任されていたサポートの役割に反抗しました。
フリースクール運動
オルタナティブスクール運動とも呼ばれ、教育改革を進める運動です。
現存の教育制度に反発し、親や教師、学生によって運営される小規模な学校を目指しました。
教育革命を起こしたフリースクールは100校以上ありました。
環境保護活動
この頃の問題は、人口過多、石油危機、大気汚染、ゴミ、ベトナム戦争による環境への影響、自動車依存のライフスタイル、原子力エネルギーに関する懸念でした。
テーマは「自然に帰る」です。
ゲイ解放運動
1969年にニューヨークのグリニッジヴィレッジにあるゲイバーに警察が襲撃、警察に反対するデモ、暴動が起こりました。
ストーンウォール(バーの名前)暴動は、セクシャル・マイノリティを迫害した政府に初めて抵抗したものと言われています。
同性愛者権利運動の始まりです。
新しく生まれたカルチャーの例
また、カウンターカルチャーではこんな文化が生まれました。
ヒッピー


1967年1月14日、アーティストのマイケル・ボーエンが学生のシットインにヒントを得て、サンフランシスコでヒューマン・ビー・イン(Human Be-In)を主催しました。(上の画像は集会のポスター)
人間性の回復を求める集会で、瞬く間に全米へと広がり、この年の夏は「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれました。
1967年夏、シンガーソングライターのスコット・マッケンジーによる『花のサンフランシスコ』という曲の演奏と、サマー・オブ・ラブを祝うため、世界中から10万人もの若者がサンフランシスコのヘイト・アシュベリー周辺に集まりました。
曲は世界中で瞬く間にヒット(アメリカで4位、ヨーロッパで1位)しました。
ヒッピーはフラワーチルドレンとも呼ばれました。
新しいスタイルのファッションを生み出し、ドラッグを試し、共同生活をし、生き生きとした音楽シーンを開拓しました。
マリファナ、LSD、その他ドラッグ
幻覚剤に関する研究のほとんどは、1940年代から50年代に始まっていました。
1960年代は重要な実験がその効果をもたらした時代でした。
薬の作用で起こる神秘的な体験を利用し、意識を高める方法として使用を勧めました。
ピンク・フロイド、ジミ・ヘンドリックス、ザ・ドアーズ、ビートルズなど人気ミュージシャンは注目を集め、ドラッグへの関心を高めました。
性的革命
伝統的な行動関係に挑戦するものです。
避妊やピル、公共でのヌード、婚前交渉、同性愛や合法中絶なども後に含まれました。
代替メディア
地下新聞があらゆる都市、学園都市で誕生し、カウンターカルチャーを定義し伝える役割をしました。
新聞には漫画がよく掲載されていて、アンダーグラウンド・コミックスの発端となっています。
代替ディスクスポーツ(フリスビー)
ヒッピー達がフェスティバルやコンサートでフリスビーを投げていたことから、人気になりました。
ダブル・ディスク・コート、ディスク・ガッツ、アルティメット、ディスクゴルフなどの競技が生まれました。
ファッション
体制に反抗する気持ちが視覚的に現れたのが、ファッションとスタイルです。
長髪、絞り染めの衣服、ルーズなプレーリードレスやトップ、フレアーのパンツ、ビーズ、ジーンズなど。
消費社会に反対し、カウンターカルチャーの多くのメンバーはヴィンテージアイテムを購入するか、古着屋やフリーマーケットでの買い物を選びました。
男性は社会的規範から逸脱し、長い髪と髭が一般的でした。
より自然に見えるように、サンダルと自家製ジュエリーを身につけました。
女性は化粧を控え、ブラを着用しませんでした。
またアフロヘアも人気でした。
これらはヒッピーの美学として知られています。
ミュージック
カウンターカルチャーのピークは、ウッドストック・フェスティバル(Woodstock Music and Art Festival)と言われています。


1969年8月15日から17日の3日間のはずでしたが、実際は度重なる雨でプログラムが遅れ、18日午前にかけて4日間行われました。
場所は、ニューヨーク州サリバン郡ベセルの酪農農場です。
主催者は、マイケル・ラング、ジョン・P・ロバーツ、ジョエル・ローゼンマン、アーティ・コーンフェルドの4人。
後に、コンサートプロモーターやプロデューサーになっています。
初の大規模な野外コンサートで、カウンターカルチャーの集大成、ヒッピー文化の頂点として重要なイベントです。
30組以上のロック・ミュージシャンなどが出演し、大トリはジミ・ヘンドリックスでした。
1〜2万の入場を予想していたところ、チケットは18万枚!売れました。
そして実際の入場者は40万人以上!
予想を倍以上上回る人数に手が回らず、結果、入場無料状態になりました。
半数以上が入場料金を支払わなかったため、大赤字。
しかしその後に出したレコードとドキュメンタリー映画で、最終的に収益になったそうです^^
フェスティバルはヒッピーの集会状態で、ドラッグも使われていたようですが、大きな問題もなく愛と平和と自由のフェスティバルだったそうです。
映画
1960年代後半から1970年代半ばにかけての、反体制的な心情の映画はアメリカン・ニュー・シネマ(英語ではNew Hollywood)と呼ばれています。
アンチヒーロー、アンハッピーエンド、ドキュメンタリー風の映像も特徴です。
代表的な映画
壮絶なラストシーンは一度見たら忘れられません!
カウンターカルチャーの最も特徴的な映画です。
まさにベトナム帰還兵の心の叫びの映画です。
他にもこんな映画があります。
カウンターカルチャーの状況を描いた映画
こちらもヘイトアシュベリーを舞台にドラッグにのめり込む若者の青春映画です。
1968年の夏、シカゴ民主党大会でのデモ隊鎮圧事件のドキュメンタリーです。
最後にカウンターカルチャーに関係した有名人をご紹介します。
カウンターカルチャーのアイコン
アスリート
- モハメド・アリ
良心的兵役拒否をした。
※良心的兵役拒否とは
懲役を拒否して兵役の代替業務である市民公共サービスを一定期間務めること。
ベトナム戦争の間、これを選ぶ若者が続出しました。
アーティスト
- アンディ・ウォーホル
絵画や映画を製作。
活動家
- グロリア・スタイネム
女性の権利を擁護するフェミニズム運動の活動家。 - チェ・ゲバラ
キューバの政治家で革命家。
学者
- ティモシー・リアリー
LSDの研究を行い、精神を開放するとしてLSDを擁護した。
コメディアン
- レニー・ブルース
政治・宗教・人種差別・同性愛・麻薬・貧困などをテーマに過激なトークショーを行った。
弾圧を受け、困窮し、急性モルヒネ中毒で亡くなるも、言論の自由の象徴となる。
作家
- ジャック・ケルアック
自身のアメリカ放浪と遍歴を下敷きにした作品。 - ハンター・S・トンプソン
主観丸出しの記事を綴る伝説のフリージャーナリスト。
俳優
- ジェーン・フォンダ
- ピーター・フォンダ
- デニス・ホッパー
- ポール・ニューマン
- ジャック・ニコルソン
ミュージシャン


Original photographer unknown, Public domain, via Wikimedia Commons
- ジミ・ヘンドリックス
ロック・ミュージックのパイオニアのひとり。 - ジョン・レノン&オノ・ヨーコ
ベトナム戦争反対と平和を求める活動に参加。 - ジム・モリソン
ドアーズのボーカリストでドラッグと大量の飲酒に嵌っていた。 - ビートルズ
サイケデリック革命で最も商業的成功を収めた。 - ボブ・ディラン
プロテストソングを発信、ジーンズをステージで着用し、ロックに欠かせないアイテムに。
犯罪者
- チャールズ・マンソン
ファミリーと呼ばれたヒッピーのコミューンで集団生活を行っていたカルト指導者
まとめ
カウンターカルチャーとは?わかりやすく意味と例をまとめたよ、いかがでしたでしょうか。
- 意味は体制に反抗する文化
- 主にベトナム戦争とリンクしている
- 大学キャンパスを舞台にした様々なムーブメントが起こった
- ファッションは体制に反抗する気持ちが視覚的に現れたもの、長い髪と髭、化粧を控え、消費社会に反対
- カウンターカルチャーのピークは、ウッドストック・フェスティバル
- 映画はアメリカン・ニュー・シネマ
でした。
そして、ベトナム戦争が終わり、カウンターカルチャーは大衆文化へと吸収されてしまったのでした。
体制に反抗する思いが、カウンターカルチャーだったのですね。
ヒッピーを調べていた時に出てきた言葉で、どういう意味かな?と興味を持ってこの記事が生まれたのですが、調べていてなかなか面白かったです^^
日本ではカウンターカルチャー、無いでしょうか?